この記事の目次
この記事で分かること
この記事を読むと次のことが分かります。
- あなたの身近な課題に「社会的ジレンマ」という名前を付けられるようになる
- ビジネスには社会的ジレンマ構造がつきものであることが分かる
- 社会的ジレンマを安直に解決しようとすると危険であることが分かる
- 北斗の拳が社会的ジレンマを扱う本格社会派マンガであることが分かる
サボり社員に悩んでいる経営者や会社員の方、まちづくりや社会問題に取り組んでいらっしゃる方などにとっては、特に必見の内容となっております。
社会的ジレンマの概要―自分で自分の首を締める
社会的ジレンマとは、簡単に言えば「集団全体が自分で自分の首を締めている状態」となります。
例えばゴミのポイ捨て問題は社会的ジレンマの典型例です。
その地域の人が皆ゴミを道や川に捨てるのではなく、きちんとゴミ箱を探して捨てたり持ち帰って捨てたりすれば、住民はみんな衛生的な道路や美しい川のある町で快適に生活することができます。
しかし、ゴミ箱を探すのは面倒です。しかも、自分ひとりがポイ捨てしたところで、何が変わるという訳でもありません。「別に大したことないんだし、俺ひとりくらいポイ捨てしたって構わんだろう」と考える人が出てくるのは自然なことです。
ところが、実際には「俺ひとり」では済まないわけです。多くの人も同様のことを考えており、同じ様に「俺ひとりぐらい…」と思ってポイ捨てを行います。こうして、衛生的な道路や美しい川は失われ、住民は皆が不幸になってしまいます。
「本当は皆で協力して、誰もポイ捨てしないで生活環境を守った方が幸せなんだ」ということは分かっているわけです。にも関わらず、そこから簡単に抜け出せないのが「社会的ジレンマ」の難しいところなのです。
このゴミのポイ捨て問題と同じような構造の問題は、あなたの身の回り、特にビジネスの場面ではよく見かけているのではありませんか?
これから詳しく見ていきましょう。
社会的ジレンマの定義―北斗の拳は社会的ジレンマ
社会的ジレンマの定義として最も有名なのは、カーネギー・メロン大学のロビン・ドウズによる下記のものです。
参考:Dawes(1980) “Social Dilemmas”
- 一人ひとりにの人間にとって、「協力」か「裏切り」のどちらかを選択できる状況がある
- 一人ひとりの人間にとっては、「裏切り」を選択した方が良い結果を得ることができる
- ただし、全員が「裏切り」を選択した場合には、全員が「協力」を選択した場合よりも悪い結果になってしまう
この1〜3の条件を満たすものを、ドウズは社会的ジレンマであると定義しました。
どういうことが検討してみましょう。先ほどはゴミのポイ捨て問題を例に使ったので、今度は名作マンガ「北斗の拳」を題材にして考えてみます。
北斗の拳の世界は「199X年、世界は核の炎に包まれた…」ために、世界はリセットされ、無政府・無秩序状態に陥っています。アメリカの西部開拓時代よろしく、暴力がものを言う野蛮な世界です。あるいは、哲学者のホッブズがいう「万人の万人に対する闘争」状態とも言えるでしょう。
こうした世界では、人々には2つの選択肢があります。
1つ目は皆で「協力」して村を興し、田畑を耕し、文明を少しずつ復活させていくことです。地道で困難ではありますが、これが成功すればきっと人類は再び豊かな社会を実現できるでしょう。北斗の拳の荒廃した世界でも、頑張って村を興して協力しあっている人々もいます。
2つ目は、こうした人類の願いを「裏切って」、他人が頑張って築き上げた村を暴力で襲撃し、収奪して生活する選択肢です。北斗の拳の世界では、凶暴でモヒカン頭をした「悪党共」が幅を利かせており、前述の真面目な村の人々を虐殺して食料や水などを略奪したり、奴隷として自分たちの代わりに強制労働させたりしています。
参考動画:【公式】北斗の拳 第1話「神か悪魔か!? 地獄にあらわれた最強の男」(冒頭の5分くらいで世界観が分かります)
これが、ドウズの1つ目の条件、『一人ひとりにの人間にとって、「協力」か「裏切り」のどちらかを選択できる状況がある』という状態です。
さて、この悪党共は、強力な武器や武術を持っていたり、バイクやバギーなどの旧世界の遺産を保有していたり、見るからに痛そうなトゲトゲの肩パッドを皆おそろいで付けていたり、モヒカンだったりと、とにかく圧倒的な強さを持っており、村を襲撃すれば確実に勝つことができます。
しかも、世界中の「バカな弱者共」が村をたくさん作っていますから、多少の略奪をしたところで、次の略奪先に困ることはありません。バカな弱者共が苦労して蓄積した財産を、自分たちは何の苦労もなく手に入れることができるのです。
したがって、悪党どもは人類を「裏切って」略奪を続けることが最も得なわけです。改心して村人たちに「協力」し、一緒に田畑を耕すなんていう「バカなまね」はしないでしょう。
この構造が、ドウズの2つ目の条件、『一人ひとりの人間にとっては、「裏切り」を選択した方が良い結果を得ることができる』を指しています。
しかしながら、こんなことを続けていたらどうなるでしょうか?
いくら頑張って村を興しても、その度に豊かな村の噂を聞きつけた悪党どもが湧いてきて略奪されてしまうのでは、「頑張って協力している自分だけがバカを見る」ことになってしまいます。そのうち誰も村を興さなくなり、皆がモヒカンになってしまうでしょう。
すると、世界から村が消滅してしまいます。さすがの悪党も、存在しない村を襲撃することはできませんから、やがて悪党同士で闘い合うこととなり、総モヒカンと化した人類は滅亡してしまうでしょう。もし全員が「協力」して村を興してさえいれば、やがては人類も復興できたかもしれないのと比べると、とても悲惨な結末です。
これが、ドウズの3つ目の条件、『ただし、全員が「裏切り」を選択した場合には、全員が「協力」を選択した場合よりも悪い結果になってしまう』ということの意味です。
ということで、ドウズ博士の定義により、北斗の拳は人類規模の社会的ジレンマ状況を描き出した社会派マンガであることが分かるのです。
現実の社会的ジレンマ―買い溜め問題も社会的ジレンマ
現実社会には解決の難しい問題がたくさんありますが、社会的ジレンマ構造を持っているものは少なくありません。
環境問題や資源問題は地球スケールの社会的ジレンマです。「自分だけなら…」という浅はかな考えで国家や企業が行動すれば、深刻な環境汚染や公害問題をもたらします。
違法駐車による交通渋滞や、図書館の本の「借りパク」、アパートでの騒音問題なども、社会的ジレンマ構造を有しており、先ほどの環境問題・資源問題と同じ「公共財問題」というカテゴリーに分類されています。
あるいは、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大を受けて発生したマスクや消毒液の買い占め問題のような、「パニック行動」も社会的ジレンマです。「自分だけがバカを見てしまってはたまらない」という理由から、「必要分以上にとにかく手当り次第に買い溜める」という「裏切り」行動を人々がとってしまい、マスクが不足した医療関係者がウイルスに感染して医療供給量が減少し、助かる命も助からなくなるという、まさに自分で自分の首を締める事態に陥るわけです。
ビジネスと社会的ジレンマ―サボり問題は社会的ジレンマだった
社会的ジレンマは、現代の企業経営にまつわる問題のいたる所に存在しています。
最も典型的なのは、サボり社員問題でしょう。
会社は、そこで働く人みんながうまく協働することで生産活動を行い、利益をあげています。そこで、「俺ひとりぐらいサボっても、他のマジメな奴らがカバーしてくれるから問題ないだろ」と考える人も出てくるでしょう。トイレに籠もってスマホで遊んだり、バレない程度にタバコ休憩を増やしたり、外回りで手を抜いたりと、サボろうと思えば方法はいくらでもあります。
先ほどの北斗の拳の例で登場した、モヒカンの「悪党」は真面目な村人を攻撃するという意味で「積極的」な裏切り行動でした。この「サボり社員」は「あえて協力をしない」という「消極的」な裏切り行動を取っていると言えます。裏切り行動を取っているという意味では、サボり社員=モヒカンなのです。
しかし、皆がサボり社員になってしまったり、「こんな会社バカバカしい!」と怒った優秀な社員が辞めていってしまえば、早々に会社は立ち行かなくなり、残ったモヒカン社員も失業の憂き目を見ることになってしまいます。
こうした構造は、出世競争のための騙し合いや、過度なセクショナリズムによる部署間の対立から生じる非効率など、ビジネスの現場の身近なところにありふれています。これは個々の社員にとっても大問題ですが、この社会的ジレンマの存在が会社の存続を危うくするという意味で、経営者にとっても深刻に考えなればならない問題なのです。
他にも、コストカットのために架空の検査データをねつ造して業界の規制を破る行為は、「ウチだけなら問題ないだろ…」と言っている間にねつ造が横行し、大問題に発展して規制が厳格化して逆にコストアップしてしまうでしょう。
あるいは、「多少インチキしても、素人のお客さんにはバレないだろ…」と言ってアコギなことをやって利益を出せば、他社がそれをマネすることでインチキが横行することになり、深刻な消費者被害やモラルハザードを引き起こすでしょう。結果として、行政処分や業界規制、消費者不信という破滅的な結末を向かえます。
ここまでくると、最初から「人の集まるところに社会的ジレンマあり」と構えた方が良いとも言えるでしょう。そういえば「会社」「社会」という熟語は「神様をまつる(社)ための村人の集まり(会)」を意味しており、要するに「人の集まるところ」という意味なのでした。
参考:漢字文化資料館
社会的ジレンマの解決が難しい理由―安直な施策は状況を悪化させる
ここまで社会的ジレンマの定義や実例を見てきました。
そろそろ「じゃあどうやったら解決できるんだ!」と気になっていらっしゃるかと思いますが、簡単に解決できないからこそ社会的ジレンマは社会学上の大テーマになっているのです。
会社におけるサボり社員問題に直面して、「よし!じゃあ社員を監視して、サボってる奴を見つけて処分しよう!」と考える経営者がいらっしゃいます。しかし、これでは社会的ジレンマを解決することはできません。
まず「社員を監視する」と言っても、それには何らかのコストが避けられません。監視カメラを付けて働きぶりを録画するなら、その設備導入・運用コストや、録画した動画をチェックする手間がかかります。そもそも、チェックする人がサボるかもしれません。
「今日やった成果や、時間毎にやっていたことを報告しなさい」とする「業務報告」の実施もよく見かけますが、こんなことは何の利益も生まずに、社員に余計な負担を課して生産性を低下させるだけです。しかも、不真面目なモヒカン社員がこんな報告書を正直に書くわけないでしょう。報告書をチェックする上司も手間ですし、その上司自身がモヒカン社員なら、この制度自体が骨抜きになります。
さらに、このような「監視」制度の導入は「社長は自分が雇った社員を信用していない」というメッセージを発信することになり、社員の士気の低下を招きます。
もっと言えば、そもそも「監視さえすれば誰がサボっているか分かる」という発想自体が疑問です。個々人の仕事の忙しさには波があり、Aさんが忙しくてもBさんはヒマということは日常のことです。あるいは、「プレゼン資料の余白を1ミリ調節する」といったような、何の利益にもつながらない作業に忙しくしている社員と、本質を見抜いて効率的に仕事を処理して優雅に休憩している社員とでは、どちらがサボっているのでしょうか?
あるいは、「罰を与える」と言ったって、量刑の判断や誤審があった時の補償など、制度設計はどうするのでしょうか? この設計を間違えば、社員がみんな罰を恐れてビクビクしながら働くことになってしまい、社員の創造性の発揮など期待できなくなるでしょう。
こういった「監視の理論」は、20世紀初頭に「科学的管理法」で有名を馳せた「テイラー主義」的な施策につながっていきやすい。「無知な労働者に、有能なエンジニアが最適な働き方を教え込む」といった発想です。
この考え方は多人数のブルーカラーが工場に集まって働いていた時代には一定の成果がありましたが、その後の機械設備の精緻化やサービス業の躍進によるホワイトカラーの一般化を受けて、今や生産性を阻害する時代に合わない考え方になって久しいものです。
ということで、監視しても上手く行かないことが分かると、次に出るのは「そしたら、社員にしっかり道徳教育を行い、モラルを高めて、サボらないようにしよう」というアイデアです。先ほどの「監視と罰則」をハード戦略とすれば、こちらはソフト戦略となりましょう。
しかし、これでは真面目な社員には何の救済もなく、「正直者がバカを見る」事態をエスカレートさせかねません。
そもそも「真面目に働きましょう」なんてことは、わざわざ会社で教育するまでもなく、常識中の常識です。そんな常識を無視してサボる人に、本当に道徳教育が効果があると思いますか? 多少は効果があるにしても、全員を改心させるのが難しいことは明らかです。
すると、改心しなかったサボり社員は、改心して真面目になった社員からさえ、搾取することが可能になってしまいます。先ほどの北斗の拳の例で言えば、モヒカン悪党の目の前にわざわざ美味しそうな村を用意してやるようなものです。会社が「道徳教育」などと言ってカモを無限に用意してくれるおかげで、サボり社員は安心して思う存分サボれるわけです。
以上のように、ハード戦略にしてもソフト戦略にしても、社会的ジレンマを解決できないどころか状況を悪化させかねないのです。
社会的ジレンマ構造の本質には、「裏切り行為のメリットは裏切り者の独り占め、デメリットは皆で分担」という、裏切りを誘発する利得構造と、「人間誰しも、自分の利益を少しは考えないと生存できない」という生存上の制約とが絡み合っています。
完全な無私の心を持った聖人君子は、定義上、自分の生存のために必要なパンでさえ困った人に分け与えてしまいますので、あっという間に死んでしまいます。ですから、現代社会に生きている人は、程度の差はあれ必ず「利己心」を持っていることになります。その利己心が、特定の利得構造を持つ状況と結びつく時、ソフト要因とハード要因が出会った時に社会的ジレンマが成立するのです。そう簡単には解決できないことは、ご理解頂けると思います。
社会的ジレンマの解決策―ヒントは現実社会の中に
社会的ジレンマを解決することの難しさを考えると絶望的になりますが、しかし解決が不可能なわけではありません。社会学やゲーム理論の分野で研究が積み重ねられており、様々な解決策の候補が提出されています。
実際、もし社会的ジレンマが完全に解決不可能なのであれば、現代社会は裏切り者ばかりがはびこっており、皆がモヒカンになっているはずです。しかし、そうはなっていません。たしかに裏切り者もいますが、そうじゃない真面目な人もたくさんいます。この現実こそが、社会的ジレンマを解決して真面目な人が生き残る道が確かに存在しているということを強く示唆しているのです。
記事を改めて、社会的ジレンマの解決策を探っていきたいと思います。