以下のような疑問をお持ちの方は、ぜひ記事の最後までお付き合いください。その疑問にお答えします。
- 今は会社に勤めているが不満がある。起業したら変われるだろうか?
- 起業したら色々な不安に悩まされて、かえって苦しいのでは?
- いつも同僚と自分を比べてしまって苦しい。何がいけないんだろう?
統計データとイヴァン・イリイチの理論を使って、「一般的にはどうなのか」そして「あなた自身はどうなるのか」の両方に答えます。
日本政策金融公庫総合研究所の2017年版「起業と起業意識に関する調査」では、起業にまつわる満足度についての調査結果が報告されています。下の3つの図をご覧ください。
上の3つの図を見て分かるとおり、「収入」「仕事のやりがい」「私生活(休暇や家族との過ごし方)」の全てで同じ傾向があります。
すわなち、実際に起業した人々である「起業家」は最も満足度が高く、起業に関心の無い人々の「起業無関心層」の満足度が2番めで、起業の経験は無いものの起業に関心を持っている「起業関心層」の満足度が最も低いのです。
この調査結果から、「起業に関心があるけど思いとどまっているという人は、起業することで満足度が高まる可能性が高い」ということができそうです。
しかし、これはあくまで統計的な話です。
起業に関心を持つあなたが、起業で満足できるかどうかを考えるためには、上記の統計結果を解釈するための理論が必要です。
イヴァン・イリイチ 脱学校の社会
なぜ起業家は満足度が高く、起業関心層の満足度が最も低いのでしょうか。この調査結果を解釈するために、産業社会批判で知られる思想家イヴァン・イリイチの代表作「脱学校の社会」(東京創元社、1977年、原著は1971年)にヒントを求めてみたいと思います。
近代産業社会において人々に強制される、飽くなき消費への期待と、人間の社会的序列化という価値観を、イリイチは批判します。そして、人々を近代的価値観に適合した「良き市民」へと改造してしまう代表的な制度として「学校」を分析の対象に選びます。
今日のような義務制の学校は産業革命以降、国民国家の登場によって始まります。学校の登場以前は、子どもたちは親の畑仕事や手工業を手伝いながら、いわば「兼業」的に宗教施設や私塾で勉強していました。近代以前の「教育」は、勉強はもちろん、親の手仕事を手伝う中で獲得される技能をも含む、多様なものでした。親の仕事や周囲の環境によって子どもたちが「学ぶ」内容は異なりますが、それぞれが同様に価値のあるものと考えられていました。
ところが、産業社会が「学校」を発明すると状況が変わります。かつて豊かな内容を持っていた「教育」は、単に学校が供給するカリキュラムを順に消費していくことを意味するようになります。義務制の学校は子どもたちを毎日長時間拘束することで、兼業的な学びの環境を破壊してしまいました。
学校において子どもたちは、「学校から与えられるカリキュラムをたくさん消費することが人間の価値を高めることなのであり、カリキュラムをどれだけ消費したかはテストによって平等に測定される」ということを教え込まれます。カリキュラムをたくさん消費し、良い学校に行けばエリートとしての将来が約束され、反対に例えば家庭の貧困などが原因で学校を中退し、カリキュラムを十分に消費しなかった者には落第者の烙印が押され、良い仕事など望むべくもありません。落第者は自分が価値の劣る人間になったことを知り、みずからの困窮した地位を受け入れるようになっていきます。
こうした社会環境の中で、子どもたちは「与えられるものを消費し続けることは良いことだ」という飽くなき消費欲求と、「人間はどれだけ消費したかという尺度で序列化することができる」という人間の社会的序列化の価値観を学習した「良き市民」へと改造されるのです。
以上が、ごく簡単なイリイチの論点です。
カリキュラムの消費によって出世する会社組織
では、イリイチの議論を「起業家の満足度はなぜ高いのか」という私たちの問題に応用していきましょう。
「学校」で与えられたカリキュラムを消費することが自らの価値を高めると信じ込まされ、無限に消費する欲望に駆られた子どもたちは、会社に就職してからも同じ発想で行動し続けます。
恐るべき量のカリキュラムを消費し、無事「良い学校」を卒業した子どもには、産業社会における良い仕事が与えられます。そして彼は、会社において地位を高め、序列の頂点を目指すために、新たなカリキュラムの消費に邁進することになります。
そのカリキュラムは、例えば花形部署で活躍することかもしれませんし、飲みやゴルフを通じて社内人脈を広げることかもしれません。物心ついた時からカリキュラムの消費によって育ってきた彼にとって、もはやカリキュラムなしの人生など考えることはできません。例え彼が途中で「落第」してしまったとしても、それは自分が十分にカリキュラムを消費できなかったせいなのですから、彼は自分自身の無能を呪いながらも、その地位を受け入れることでしょう。
分かりやすくするために極端に書きましたが、上記のように大なり小なりカリキュラムの中に生きる人々を「起業無関心層」と考えることができます。
自分の価値観を捨てられない者たち
一方で、「学校」による改造を施されてもなお自分の価値観を捨てられない者たちも居ます。
もともと頑固な性格なのか、親が学校嫌いなのか、理由は様々でしょうが、とにかく彼らはカリキュラムを消費することに疑問を持ち続け、「良き市民」とは別の価値観を持つに至ります。
そしてどこかのタイミングでカリキュラムの消費による序列化の世界に決然と別れを告げ、自分自身の価値観で生きていくようになります。彼らこそ、「起業家」に他なりません。
起業家は、もはや自分の価値観の表現を我慢する必要がありません。例え貧しい生活をすることになったとしても、カリキュラムに生きる人々のように「生活が苦しいのは自分が十分にカリキュラムを消費できない無能だからだ」と、自分を辱める必要もありません。
「起業無関心層」であるカリキュラムに生きる人々が、どれだけ消費しても「もっとカリキュラムを!」と無限に欠乏感に囚われ続けるのに対して、自分の価値観で生きている「起業家」は満足することを知っています。
したがって、起業家の方が起業無関心層より満足度が高いのです。
脱サラ志願者のあなたへ
そして、「起業関心層」は脱サラ志願者のあなたに他なりません。
学校による改造を受けてもなお自分の価値観を持ち続けていますが、しかしまだカリキュラムに生きる人々と同じ環境に生きています。
心のどこかで、自分がやっている「カリキュラム消費競争」に疑問を感じているのですが、これまでカリキュラムの消費によって生きてきたことが足を引っ張り、自分の価値観で生きることができるのか不安に感じているのです。孤独な葛藤を抱えながら、いつかその時が来るのを期待しています。
このように自分の本心と周囲の環境とに深刻な矛盾を抱えているため、「起業関心層」は最も満足度が低くなるといえます。
ここまで読んで私の話が腑に落ちた方は、間違いなく起業によって満足度が高まるタイプです。
あなたが起業に興味を持っている理由は、「お金持ちになりたい」とか「有名になりたい」といった、カリキュラムに生きる人々の理屈によるものではありません。
もっとあなたの存在の本質に関わる点で、自分の価値観に従って生きることを欲しているのです。
私はあなたを応援しています。必要なのは勇気だけなのです。